嘉納治五郎とオリンピック|柔道の父の経歴と功績を分かりやすく

    • URLをコピーしました!

    大河ドラマ『いだてん』主人公、金栗四三の師として登場する嘉納治五郎(かのうじごろう)

    柔道の父、東京オリンピックの父と呼ばれ、彼は教育者としても大変偉大な経歴を持つのです。

    今回は、そんな彼の77年間の生涯や人物像、功績などを見ていきます。

     

    目 次

    嘉納治五郎と柔道の出会い

     

    View this post on Instagram

     

    山城大督さん(@yamashirodaisuk)がシェアした投稿

    嘉納治五郎は1860年に摂津国御影村において屈指の名家とされる嘉納家の三男として生まれます。

    その後、明治政府によって召喚された父について上京し、書道や英語を嗜む秀才でした。

    嘉納治五郎は寸暇を惜しむ勉強家で、見事、官立開成高等学校(現・東京大学)に進学を果たします。

    彼は柔道の父と呼ばれるほどに武術に精通していますが、その当時は非常に身体が弱く、屈強な輩に負け大変悔しい思いをしていました。
    そこで彼は非力なものでも勝てる柔術を学ぼうと決意したのです。

    しかし、当時は文明開化の影響から柔術は全く省みられておらず師匠を探すのも一苦労でした。

    そんな中、大島一学に短期入門をした後に福田八之助に念願の柔術入門を果たします。

    1881年、崩しの理論の確立などを経て独自の「柔道」を作った嘉納治五郎でした。

    その翌年の1882年、段位制を取り入れ、道場である講道館を設立しますが、この段位制は囲碁や将棋の制度から取り入れたそうです。

    喧嘩に勝てないから柔術を学ぶという負けん気の強さと大胆な発想を持っていたことが彼の偉大さの源と言えるかもしれません。

    嘉納治五郎とオリンピック

    クーベルタンのオリンピック理念と嘉納治五郎

    フランスのクーベルタン男爵「スポーツによって平和でよりよい世界の実現に貢献する」という理念のもとに始まったオリンピック。

    そのクーベルタン男爵の要請で、アジア地域でIOC委員として活動できる人材が探されていました。

    そこで柔道を海外に普及させ、また一方では海外のスポーツを積極的に取り入れる姿勢を評価された嘉納治五郎に白羽の矢が立ったのです。

    オリンピックの理念と「勝利者となるかどうかだけでなく、競技に出るために努力する過程、正々堂々と奮闘すること」という精神に感銘を受けた嘉納治五郎は、1909年(明治42)に東洋初のIOC委員という大役を引き受けるのでした。

    しかし課題も山積みでした。

    オリンピックがどんなものかを国民に教える、競技規定を決める、派遣選手の育成などすべてを一から行わなければいけませんで。

    その上、当時の日本は現在ほどスポーツの振興がなされていなかったため、文部省の協力を得られず断られてしまいました。

    そこで彼は学校に呼びかけ、1911年(明治44)に、日本で初めてとなる体育団体「日本体育協会」を設立し、初代会長となり協力を得るのでした。

    そして1912年(大正元)、オリンピックのストックホルム大会選手団団長として参加を果たします。

    その後1936年に、貴族院議員としてクーベルタン男爵をノーベル平和賞に推薦する等、平和のためのスポーツ、オリンピックで国際平和を目指した嘉納治五郎の強い思いは、世界の多くの人物にも影響を与えました。

    2019年大河ドラマ『いだてん』で嘉納治五郎を演じる役所広司さんは、このように熱い嘉納治五郎を次のように語っています。

    クーベルタン(男爵)がいたからこそ、日本はオリンピックに夢中になれたのではないか。

    そのクーベルタンに影響をうけた(嘉納治五郎の)なりふり構わない決断力の速さは、周りの人間からするとハラハラするけれど、ある歴史を動かす人間としては、偉大な人なのだと思う。

    『いだてん』主人公 金栗四三との出会い

    1893年(明治26)から25年間という長きに渡り、嘉納治五郎は現在の筑波大学である東京高等師範学校の校長を勤めていました。

    東京高等師範学校では、勉学だけでなくスポーツも推奨しており、年二回マラソン大会を開催。
    この時のマラソン大会で在学中の金栗四三は一年生にして三位に入賞しました。

    これを見た嘉納治五郎は「一年生としては抜群の健闘」と評し、金栗四三を熱心に徒歩部(陸上部)に勧誘したのでした。

    その後金栗四三はクラブ活動だけではなく、自ら厳しい練習に励むことで学生界でも敵なしのランナーへと成長します。

    日本体育協会の会長となった嘉納治五郎の行ったオリンピック予選会に出場しました。

    金栗四三は、途中で足袋が破れ素足になるというアクシデントに合いながらも当時のマラソン世界記録を27分も上回る記録で見事優勝を果たすのでした。

    そしてオリンピックのストックホルム大会への出場を金栗が断ったとき、「日本のために走るのだ」と説得してくれたのは嘉納治五郎でした。

    その後も嘉納は、金栗四三を東京高等師範学校に研究科の学生として残れるように工面してくれたり、後に教職についた金栗にマラソンに取り組みやすい環境を与え続けてくれたりと支援を続けました。

    嘉納治五郎と出会わなければ、「マラソンの父・金栗四三」は生まれなかったかも知れません。

    1940年、嘉納治五郎は東京オリンピック開催のため、エジプトのカイロで行われたIOC総会に出席した後、帰国途中の氷川丸の中で肺炎を引き起こし他界します。

    77歳の生涯でした。

    あわせて読みたい
    金栗四三とストックホルムオリンピックの結果|消えた日本人ランナーの記録は?! 日本がオリンピックに初参加したのは1912年の第5回夏季オリンピックであるストックホルムオリンピック。 そのストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック選手と...

    嘉納治五郎の名言「精力善容」と「自他共栄」とは?

     

    View this post on Instagram

     

    akfm511さん(@akfm511)がシェアした投稿

    嘉納治五郎の名言に「精力善容」「自他共栄」といったものがあります。

    まず、「精力善容」とは、何事をするにも、その目的を達するために精神の力と身体の力とをもっとも有効に働かすということです。

    またこの教えは柔道だけでなく人生の様々なことの目的を達するためにも必要な教えであるといいました。

    また、「自他共栄」とは自分だけでなく他人とともに栄えある世の中にするために、相手を敬い、感謝することで助け合う心が育まれるということです。

    嘉納治五郎はこれらを柔道の基本理念として自らの教育の指針としました。

    精神と身体の両方に重きを置く、相手を敬い感謝をするといった考え方は現代のスポーツマンシップにも通ずるものがあり、嘉納治五郎の人生の指針が見える言葉だと思います。

     

    まとめ

    様々な観点から、嘉納治五郎を見ていきました。

    嘉納治五郎の功績は多方面に渡り存在するので語りきれないほどです。

    一人の人間がここまで多くの功績を残すということの苦労や労力は計り知れません。

    今でこそ日本の様々なスポーツがオリンピックという大舞台で海外と渡り合っています。

    ただ、もし彼の尽力がなければ日本のスポーツというものがオリンピックという舞台で戦うことが先延ばしになっていたかもしれません。

    それだけの課題が当時の日本にはあったのです。

    そんな偉大な嘉納治五郎が、主人公・金栗四三と織りなす大河ドラマ『いだてん』での活躍にも期待が高まります。

    • URLをコピーしました!
    目 次