2020年、東京オリンピック開催!
このオリンピック盛り上げの起爆剤として、2019年NHK大河ドラマは『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』に決定しました。
主役のモデルは、日本の『マラソンの父』と謳われる金栗四三(かなくりしそう)です。
「金栗四三ってどんな人?」
「初めて聞いた」
「金栗四三の読み方すら分からない」
という方も多いのでは? 😉
今回はそんな方に、金栗四三の人物像と、波乱と悲運と感動に溢れた彼の人生を分かりやすく紹介していきたいと思います。
金栗四三の読み方は?しぞう?しそう?
金栗四三の名前の由来と生い立ち
四三さんは明治24年(1891年)8月20日に熊本県玉名郡春富村(現在の和水町 )で誕生しました。
生家は当時としては代々酒造業を営んでおり、当時としては裕福な家庭の八人兄弟の七人目が四三でした。
「四三」という名前の由来は、またの名前の由来は少し変わっていて、四三さんが誕生した時に父の金栗信彦さんが43歳だったため「四三」と名付けられたそうです。
金栗四三の読み方について
金栗四三さんは今では「かなくりしそう」と読まれていますが、実は長い間「しぞう」と呼ばれていたのです。
実際に熊本県玉名市では四三さんを名誉市民「かなくり しぞう氏」として顕彰し、身分証明書やパスポートにも「Shizo(しぞう」と記されているものが残されています。
しかし70年代に新聞記者からインタビューを受けた金栗四三本人は、
「本当は『しぞう』ではなく『しそう』と読むんですよ」
と答えたそうです。
今回、大河ドラマとして「金栗四三」がクローズアップされ、読み方を明確にするようにしなくてはなくなり、金栗家の親族と「大河ドラマいだてん」、地域振興協議会、玉名市や和水町等の間で話し合いをしたそうです。
そこで、今年の1月29日の玉名市定例協議会で、
「かなくり しそう」
の読み方で統一されることが正式発表されました。
金栗四三の成績優秀な学生時代
22歳で玉名郡小田村(現在の玉名市)の遠縁の池部家の養子となっています。
吉地尋常小学校(現在の和水町春富小学校)を卒業し、10歳で玉名北高等小学校に入学し、成績はとても優秀でした。
幼いときは身体があまり強くない四三だったのですが、通学する際に往復12キロメートルの距離を毎日走り、徐々に身体が鍛えられていきます。
この時の『いだてん走り』の経験がマラソンをする基礎となり、四三さんは
「マラソンを走るようになったのは、いつの頃からですか?とよく聞かれますが東京高等師範(現:筑波大学)の二年生の時からです。その基礎を作ったのは高等小学校時代に一里半の通学をやったことによると思います」
と語っていたそうです。
その後、旧制玉名中学校(現:玉名高校)に入学し、特待生となり大変優秀な成績を収めて卒業しました。
東京高等師範学校(現:筑波大学)入学
その後、志望した海軍兵学校の受験に身体検査で落とされます。
それから金栗は支那(現:中国上海)の東亜同文書院の受験を希望していましたが、兄の説得で東京高等師範学校(現:筑波大学)に進学することを決心しました。
この東京高等師範学校の校長が、後に金栗の人生に大きな影響を与え続ける、嘉納治五郎です。
そこで入部した徒歩部で才能を見いだされ、明治44年(1911年)に開催されたオリンピック国内予選で見事優勝を果たします。
この時の記録は当時の世界記録を27分も縮める2時間32分45秒という素晴らしい結果でしたが、記録は世界的に公認はされませんでした。
これが金栗四三の悲運の始まりかもしれません。
金栗四三とオリンピック
ストックホルムオリンピックでの無念の途中棄権
明治45年(1912年)にオリンピック第五回ストックホルム大会が開催され、四三は日本人初のオリンピック出場選手となります。
この時のコースがカーブや上り下りが多い難しいコースなうえ、気温は30度を超える猛暑に見舞われマラソン選手68人のうち半分の34人がリタイアするという壮絶なレースとなりました。
四三さんは厳しい状況のなか17位まで順位を上げましたが、折り返し地点を過ぎた頃から急激な疲労感に襲われます。
そして26.7キロメートル地点で日射病により、意識が朦朧をしていた四三さんはコースから外れてしまいます。
そこで意識を失って倒れ、地元の農家のペトレ家に保護され介抱されました。
四三が目を覚ましたのは協議が終わった翌朝だったそうです。
直接寄宿舎に返ったため正式な棄権届が大会本部に届いておらず、今もなお、四三はスウェーデンで「消えたオリンピック走者」や「消えた日本人」として知られています。
この時、四三を開放してくれたペトレ家とは、今でも互いの子孫同士が交流があり、お互いの国を行き来しているそうです。 また、NHKの『いだてん』のドラマのエキストラとして、ペトレ家の子孫のみなさんが登場しているので、ここにも注目ですね。
ベルリンオリンピック以降
その後大正5年(1916年)に開催される予定だったベルリンオリンピックに出場が決まっていたのですが、第一次世界大戦が勃発し開催中止となり出場できませんでした。
大正9年(1920年)に開催されたアントワープオリンピックや大正13年(1924年)に開催されたパリオリンピックにもマラソン選手日本代表として出場しましたが、アントワープオリンピックでは16位、パリオリンピックではランナーとしての円熟期を過ぎていたため、途中で棄権をしています。
そのため、金栗四三は悲運のオリンピックランナーとして語り継がれています。
妻・スヤと結婚
ストックホルムオリンピックから2年後に、熊本の玉名に住む、池部家に嫁いだ親族(伯母の夫の妹)から養子話を持ち上げられ、池辺家の養子となります。
その伯母が結婚話を持ちかけお見合いをします。
それが「春野スヤ」で、玉名郡石貫村に住む医者の一人娘でした。
合ったその日に二人は惹かれ合って結婚します。
四三は22歳、スヤは21歳のときでした。
戸籍上は「池部」姓に変わっていたのですが、四三はずっと「金栗」で通していたそうです。
金栗四三が「マラソンの父」と呼ばれる理由
四三さんはストックホルムオリンピックをはじめ三度のオリンピックに出場し、そこで見た世界のスポーツ競技の水準の高さに、日本でもスポーツを広めなければならないと考えました。
とくにヨーロッパでは、女子も盛んにスポーツに参加している様子に感銘を受けた四三さんは、将来母となって国を支える女子の心身を鍛えること、女子体育の重要性に気づきました。
そこで大正10年(1921年)に東京府女子師範学校で教師として地理を教えるかたわら、大正12年に関東女子体育連盟を結成するなどをし、女子体育の振興に力を入れてきました。
またチームで長距離を走る駅伝を発案し、今では正月の恒例行事となっている箱根駅伝を企画しました。
なので、箱根駅伝で活躍した選手には「金栗四三杯」が授けられるのが恒例となっています。
今では当たり前のようにあるアイデアや行事は四三が発案、企画したものがほとんで、日本のマラソン界の礎を築いてきたのです。
そのため金栗四三は「マラソンの父」と呼ばれているのです。
マラソンシューズ「金栗足袋」の開発
当時の日本には運動靴というものはなく、足袋を履いて走っていたため、ストックホルムオリンピックでは足袋が破れ膝を痛めてしまった四三。
ですからオリンピック出場後は、東京の足袋屋「ハリヤマ黒坂親子」に頼み足袋の改良に取り組みました。
ハゼ(留め金具)をやめて、甲に紐が付いた形へ変え、ストックホルムで見た外国人が履いていた底にゴムを付けたシューズをアイデアに取り入れ、ゴム底の「金栗足袋」を開発しました。
この金栗足袋は今あるマラソンシューズの原点だといえるでしょう。
こういった功績もまた「マラソンの父」と呼ばれる所以となっています。
ストックホルムオリンピックから55年、ゴールへ
ストックホルムオリンピックから50年経った夏、一人のスウェーデンの記者が「消えたオリンピック走者」の謎を解明するべく、玉名に住む四三さんのもとへ取材に来ました。
そこで「なぜ消えたのか」「どこへ行ってしまったのか?」という謎が明るみになり、当時のスウェーデンの新聞やテレビニュースで大きく報じられたのです。
その結果、ストックホルムオリンピックから55年後の昭和42年(1967年)に、オリンピック55周年記念行事の招待状がスウェーデンから届きました。
それは、オリンピックで行方不明となりゴールテープを切ることができなかった四三さんのためにゴールインを祝賀行事で行うこという、粋な計画でした。
ストックホルムの五輪記念陸上競技場を訪れた金栗四三は、10メートルほど走り、準備されていたゴールテープを55年の時を経て切ることができたのです。
この時のアナウンスがまた粋なのです。
「日本の金栗四三 選手、ただいまゴールインしました。タイム54年と8カ月6日5時間32分20秒3、これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全種目を終了いたします」
会場は大きな拍手に包まれました。
この時のスピーチで四三は、
「長い道のりでした。その間に嫁をめとり、子供6人と孫10人ができました」
と話しました。
この記録は世界で最も遅いマラソン記録として残されています。
まとめ
金栗四三さんは自らの体験、教訓を生かし日本のスポーツやマラソン界の礎を築いてきた偉大な方です。
もし四三さんの活躍がなければ今の日本のマラソン、女子スポーツはなかったと言っても過言ではありません。
2019年に放送される『いだてん~東京オリムピック噺~』の前半では、主人公・金栗四三さんの波乱で激動で悲運に見舞われながらも、情熱を持って日本のマラソン、スポーツ界を育て上げてきた人生を、歌舞伎役者・中村勘九郎さんが演じます。
脚本は売れっ子脚本家、宮藤官九郎さん。
見逃すことは出来ませんね。