日本がオリンピックに初参加したのは1912年の第5回夏季オリンピックであるストックホルムオリンピック。
そのストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック選手として出場したのは、陸上短距離代表の三島弥彦と、 2019年NHK大河ドラマ『いだてん』主人公のモデル、マラソン代表の金栗四三(かなくり しそう)のたった2名でした。
ここストックホルムの地で、金栗四三は数奇なマラソンの記録と、スウェーデンと深い関わりを持つことになります。
今回は、金栗四三とストックホルムオリンピックについて、詳しく語っていこうと思います。
金栗四三のストックホルムオリンピックの結果
金栗四三の決意
「東京オリンピック」は「第32回夏季オリンピック」であり、実に100年以上前から日本人がオリンピックで活躍している事がわかります。
特に当時、東京高等師範学校(現:筑波大学)の学生であった金栗四三(20)は「マラソン足袋」を履いて日本のオリンピック予選会に出場し「韋駄天」のごとく走り抜け、当時の世界記録を27分も更新する「2時間32分45秒」という成績で颯爽とゴールテープを切りました。
そして当時の東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎から、ストックホルムオリンピックに送り出すことを告げられます。
しかし、四三は一度はこの推薦を断ります。
理由は、日本の皆が自分に金メダルを期待するのに、それに答えられる自信がないからだと。
そして一週間後、校長の嘉納治五郎は四三を説得します。
「オリンピックに国民の期待を一身に背負い出場しても、敗れたときにはつらい思いをするだろう。捨て石となり、礎を築くのは辛いことだが、誰かがその役割を担わなければ、日本は永遠に欧米諸国と肩を並べることは出来ない」
「金栗君、頼む。日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』になってくれ」と。
その熱い嘉納の言葉で金栗四三は、
「オリンピック出場は自分のためではない。日本のため、後輩たちのために今、自分が立ち向かわなければならない」
とストックホルムオリンピック出場を決意しました。
ストックホルムまでの遠征費
1912年(明治45年)の5月、ストックホルムに向けての5ヶ月の遠征に出発します。
しかし、当初、その遠征費を国が支援する予定だったのが、文部省の反対で自己負担となってしまいます。
交通費、宿泊費、食費などを考えると1800円ほど(現在の金額に換算して500万)の資金が必要になります。
しかし学生だった金栗四三にその様なお金はありません。
そこで東京高等師範学校の寄宿舎の仲間たちが「金栗四三後援会」を立ち上げ、1500円程度を支援してくれ、残り300円を、熊本の兄、金栗実次が負担してくれ、ようやく出発することが出来ました。
新橋から船でウラジオストックに向かい、シベリア鉄道でロシアのサンクロペテルブルクへ。
そして再び船に乗り込んでストックホルムに到着。
なんと出発から17日の長旅でした。
消えた日本人ランナー 金栗四三
日本国民全体の大きな期待の中、金栗四三が参加したストックホルムオリンピックのマラソンでの成績は、誰もが予想していないものでした。
金栗四三はレース中に「失踪」したのです。
ストックホルムに到着後、1ヶ月ほどの調整期間がありましたが、とにかくこの時期のストックホルムの暑さは尋常ではなく、白夜で夜も太陽が沈まない状態なので、四三は夜の睡眠も取れていませんでした。
その状態で迎えたオリンピック当日。
ストックホルムは30度を超える猛暑でした。
多くの選手が日射病で断念していく中、金栗もその一人になってしまい、とうとう26.7キロメートル地点でコースを外れ、林の中で倒れているのを沿道で応援に駆けつけていた日本の林中佐と東京帝大の友枝助教授に発見されました。
四三は近くにあったペトレ家の人々に介抱されていました。
当時の様子を、金栗四三へのインタビューとして、スウェーデンExpressen誌はこう伝えています。
気がつけば何処かのお宅に居たわけです。
とてもいいご主人で、家族の方たちもフルーツや飲み物をくれたり、本当に親切にしていただきました。
と答えています。
解放された金栗四三と、林中佐、友枝助教授の三人は、近くの駅まで行き、汽車に乗ってホテルへ帰ったため、競技場へ戻らず、棄権申告もしませんでした。
そのため、100年を過ぎた今でも、スウェーデンでは『ミッシング・ジャパニーズ(消えた日本人)』として、金栗四三は記憶に残されているのです。
しかしその時ホテルでの四三は、日本国民の落胆を思うと、やり切れない暗鬱な気持ちになっていました。
ベルリンオリンピック中止
悔しい気持ちを胸に雪辱を誓い、リベンジを目論み走り続けた金栗四三は、毎日を「いだてん走り」で駆け抜け、トレーニングを積み上げました。
そして1913年(大正2年)の「第一回日本陸上競技大会」マラソンで、2時間31分28秒を記録、翌年の第二回大会でも2時間19分30秒で世界記録を2度も破ったのです。
「今度こそ金栗四三は金メダルだ」
そんな気運が高まった中で、第一次世界大戦が勃発。
万全の体制で望んだ翌開催のベルリンオリンピックは中止となりました。
全てをかけて望んだオリンピックが中止され、四三はマラソンの引退を決意しますが、予選会に勝ち抜いたため、再び1920年のアントワープオリンピックに参加します。
このとき四三は29歳。
結果は16位と振るわず、その次の1924年のパリオリンピックでは途中棄権となりました。
すでに四三は33歳になっていました。
金栗四三の全盛期は、25歳の時のベルリンオリンピック当時だったのではないでしょうか。
悲運のランナーのオリンピック人生は幕を閉じます。
金栗四三のストックホルムオリンピックの記録(成績)
1962年、ストックホルムオリンピック実行委員会から一通の手紙が金栗四三の元に届きました。
内容は、「ストックホルムオリンピック50周年記念式典に金栗四三を招待したい。」というもの。
あなたは1912年7月14日にストックホルムオリンピック競技場をスタートして以来、何ら届けもなく、今まだどこかを走り続けていると想定されます。
スウェーデンオリンピック委員会は、あなたに第5回オリンピックストックホルム大会マラソン競技の完走を要請します。
という、粋な内容でした。
こうして75歳になった金栗四三は、記念式典に参加し、無事に「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3」という、マラソン史上最遅の成績で、ゴールテープを切りました。
競技場に集まったスウェーデンの人々から割れんばかりの拍手が起こったそうです。
スウェーデン、ストックホルムオリンピックで失踪した「消えた日本人ランナー」は、こうして記録に残るタイムでゴールすることが出来たのです。
金栗四三がもたらした功績
ベルリンオリンピックの中止のあと、教職についた金栗四三は、神奈川県師範学校や獨協中学校に赴任して、若者たちの指導に、特に女子スポーツの記録向上と指導に力を入れました。
その後、日本のマラソンを強化するために、各大学の長距離ランナー達に刺激を与えるために『大学対抗の駅伝レース』の開催を提案し、第一回大会が1920年(大正9年)に開催されました。
これが、毎年1月2日、3日に行われる箱根駅伝となります。
また、金栗四三はその偉大な存在がゆえ出身地の熊本県では「金栗記念選抜陸上」という日本グランプリシリーズ(国内トップレベル)の陸上大会が開催され、ここでは学生最大の駅伝である箱根駅伝に出場するトップクラスの関東の学生ランナーも出場しており、毎年多くの好記録が生まれています。
金栗四三は、激走する多くの若いランナーたちにとっての「マラソンの父」であることに間違いはありません。
また、作中にも登場予定の金栗四三がマラソンの際に履いていたとされる「マラソン足袋」ですが、金栗四三はオリンピックから帰国後、外国の選手がゴムソールのシューズでマラソンを駆け抜けているのを見て、ゴムソールのマラソン足袋の開発にも力を入れました。
競技引退後も国産では初めてのランニングシューズてある「かなくりシューズ」の開発に成功し、日本のマラソン界に影響を及ぼし続けてました。
まとめ
金栗四三は、紛れもなく日本のマラソン界、そしてオリンピック界に多大な影響を与えた人物といって間違いありません。
数々の悲運にも腐ることなく、ひたすらに日本のマラソンの発展に尽力し、日本の黎明の鐘となった金栗四三。
生涯走り抜いた距離は25万キロと言われています。
練習熱心で、走ることを誰よりも愛していた金栗四三。
「体力、気力、努力」によって人は成長する、そう語って92歳の生涯を閉じました。